ここ最近の屁の勢いが尋常じゃねぇ

興味の赴くままに生きた記録をつづる

31歳の誕生日の朝に

31歳の誕生日の翌朝、自宅のwi-fiが使えなくなった。

後からわかったことだが、深夜の落雷でアパート自体の回線が故障したらしい。Wi-fiではなく、通常の回線に切り替えればスマホは問題なく使えるが、間の悪いことにギガの上限まであと少し。誕生日まで持ちこたえてくれたことには感謝だが、YouTubeポッドキャストSNSのチェックが趣味の私にとって、突然のネト禁はあまりにもきつい。

 

通常の回線はギガを食うから、動画やSNSはほぼ見られない。通信を必要としない暇つぶし方法を頭の中で列挙したのち、ふと思い立ってパソコンでwordを開いた。

 


文章を書くのは久しぶりだ。年はじめに開設したブログは、1週間しか続かなかった。その後はブログにアクセスすることすらなく、放置している。年に1度、プロフィール欄の年齢を1つずつ増やしていくだけになってしまった。昨年は、29を30に書き換えた。今年は30を31に書き換えるわけだが、ネットが使えない今はそれもできない。年を重ねるにつれ、何かを形にすることがすっかり億劫になってしまった。

 


誰もが発信できる時代に、わざわざ自分が発信したいことは何だろう。

「自分の個性を人に見せて、認めてもらいたい。あわよくばそれで金儲けもしたい」。そんな思惑が渦巻くSNSの投稿を眺めていると、ほとほと嫌気がさす。それと同時に、何も手を動かしていない自分が無になったような焦りも感じる。面白くもない、ましてや人を傷つけるような発信をするくらいなら、何も言わないほうが100倍マシだとわかっている。わかっているけれど、むなしかった。

 

自分は他人を見ていたいけど、他人に自分を見せるのは嫌。一方的に受け取るだけのコミュニケーションが1番好きだ。コロナ渦の自宅待機期間、さまざまな有名人がYouTubeライブ配信をしていた。雑談したりご飯を食べる様子を長時間見ていると、さみしさが埋まった。

 


ここ数年、受信特化型コミュニケーションに徹している。

たった今思いついた言葉だ。つまり、自分は発信せず、他者の発信に反応もせず、ただただ他人の発信を受け取るだけ。言葉選びが面倒くさいし、詮索されるのも馬鹿にされるのも嫌だ。大学3年から更新が止まっているSNSアカウントは専ら他人の投稿を見るだけ。しかも、フォローせず、検索機能を使って盗み見ている。フォローやいいねすること自体がコミュニケーションになってしまうからだ。

 

 

SNS上で受信に徹することは簡単だが、現実世界ではそうもいかない。他人と二人きりの時は、自分も何らかの言葉を発さなければ会話が成立しないからだ。だから私は、現実世界でのコミュニケーションも避けていた。育児休暇中なので、他者との関わりをシャットアウトすることはとても簡単だ。

ライブ配信やラジオ、ポッドキャストをほぼ1日聞き続けているのはまさにその表れだと思う。もちろん、受信特化型コミュニケーションにも良さはあって、何より自分と対話できる。ラジオで出てきたエピソードから「そういえば昔こんなことがあったな」「あの時はこうしたけど、今の自分ならきっとこうするな」みたいに考えられるし、過去の自分を成仏できる。今の自分に新しい視点を増やすこともできる。受信特化型は、他者とではなく、自分とコミュニケーションするのにもってこいだと思う。

ただ、あまりに徹しすぎると、リアルな他人との交流がなくなって孤独になっていく実感もある。


もやもやを抱えていたある日、近所でいろんなお酒を飲めるイベントが催された。ライブやダンスのステージもある、わりと大きなイベントだ。司会を務める芸人さんは、私が日常的に聞いているツイキャスの配信主でもあった。イベント前日の配信で「司会の時間以外は屋台ぶらぶら回ってるので、見かけたら声かけてください!」と言っているのを聞いていたので、もし本当に会えたらうれしいな~くらいの気持ちで会場に足を運んだ。


会場でおいしい日本酒を飲み、少し酔いが回ってきたところで、その芸人さんが司会で登場した。いつも声だけを聴いている人が実際にステージを進行している姿は新鮮だった。その後屋台を回っていると、その方が普通に屋台を回っている姿を見つけた。いつもの自分ならそこで帰るが、酒の勢いも借りて勇気を出して声をかけた。すると、配信で聞くままの声で、明るく優しく対応してくれた。自分の日常をそっと支えてくれている人に、直接応援の言葉を届けられたこと。イベント後の配信のなかで「声かけてくれた人がいてめちゃくちゃうれしかった」と言ってもらえたこと。その喜びが、心の扉を少し開いてくれた気がする。

 


丸5日後、無事我が家のwi-fiは復活した。また、何の不自由もなく受信できる日々が始まる。発信することの意味は、正直今もよく分からない。でも、何も行動しないのもそろそろつまらない。一歩を踏みしめるような気持ちでwordの文章をワードプレスに貼り付け、公開ボタンを押した。